先日、蔦屋書店の写真集の棚の前で1時間ほど過ごしました。そこで考えたことを、忘れないうちに書いておきたいと思います。言いたいことはシンプルです。写真集に足りないのは、立ち読みです。
やっていたことは単純です。棚から本を抜いてぱらぱらめくり、ぴんとこなければすぐに閉じて戻す。これを1時間くりかえしました。その途中で、本当にいいと思える本に3冊出会いました。奥山由之さんの『ポカリスエット』、川内倫子さんの『うたたね』、そしてMark Steinmetzの写真集です。結局1冊も買わなかったのに、なぜか満足して帰りました。買っていないのに満たされている、その感覚がずっと残っていました。先に結論を言うと、あの1時間で私が手にしたのは本ではなく、立ち読みそのものだったんです。
ここで言う「立ち読み」は、書店で本をめくることだけを指すのではありません。好きになる前の一枚の写真に、偶然出会える場所のことです。ここから先は、この意味でこの言葉を使います。
最初の記事で、作品の背景にある物語や思いを聞くと、作品がぐっと魅力的になると書きました。今回気づいたのは、その手前にもうひとつ段階があるということです。私が写真集を好きになる入口は、いつも一枚の写真です。何十ページめくってもぴんとこない本もあれば、数ページでつかまれる本もある。アート写真は、どこがいいのかを言葉にするのに時間がかかります。でも「この写真、なんかいい」という直感は一瞬でやってくる。写真家の経歴やあとがきを読むのはそのあとで、作品がぐっと魅力的になるのはそこからです。つまり背景が本当に効いてくるのは、立ち読みでその一枚に出会ったあとなんです。
たとえば、Joel Meyerowitzの『Wild Flowers』には、ニューヨークの歩道を撮った一枚があります。手前には赤茶色のジャケットを着た男性の背中があり、その肩越しに、大きな赤い花束と黄色い花束が人ごみのなかを運ばれていく。花のすぐ横を、鼻に白いテープを貼り、赤いカーディガンにチェックのシャツを着た女性が、白い紙袋を手にこちらへ歩いてくる。その後ろには、晴れた空と高層ビルが広がっています。正直、この写真のどこがいいのか、いまだにうまく説明できません(笑)。花と鼻のテープの組み合わせなのか。ありふれた人ごみが、一瞬だけ舞台のように見えるからなのか。ただひとつ確かなのは、はじめて見たとき「これだ」と思ったことです。Meyerowitzがどんな人なのかを調べたのは、そのあとでした。
では、私はどこでMeyerowitzに出会ったのか。Kindle Unlimitedで読んでいた雑誌『&Premium』の特集です。月額の読み放題でたまたま開いた雑誌で出会ったので、これは有料の立ち読みです。考えてみると、音楽でも同じことをしています。Spotifyにはもう3年ほどお金を払っていますが、払っているのは好きなアーティストを聴く権利というより、知らない曲に出会う権利のほうです。美術館に2,000円払って入るのも、作品を持ち帰れない以上、立ち読みのための入場料にすぎません。つまり立ち読みには2つのかたちがあります。ひとつは書店のように、出会うこと自体は無料で、好きになったときにはじめてお金が動くもの。もうひとつはSpotifyや読み放題のように、立ち読みそのものに月額を払うもの。蔦屋書店での1時間で私が満たされたのは、前者を1時間、無料で使ったからでした。
そして、ここからが本題です。写真集には、この立ち読みがほとんどありません。写真集は刷られる部数がとても少なく、300部や400部しか刷らない本もざらにあります。そのため扱う書店も限られ、大都市の外や海外に住む人の多くは、その本が存在することさえ知らないままです。私自身、写真集の有料の立ち読み、いわば「写真集のSpotify」のようなものを使ったことはありません。
でもこれは、大都市から遠い人だけの問題ではありません。私は写真集の品揃えがいい書店に通える場所に住んでいます。それでも、立ち読みでいい本に出会える機会はとても限られています。棚に並んでいるのは、世界中の写真集のほんの一部にすぎません。たまたま手に取った1冊がいい本かどうかは、ほとんど運しだい。今回の3冊も、その日の運でした。つまり写真集の立ち読みは、住んでいる場所と、その日の運にすべてゆだねられているんです。
立ち読みで本を好きになった人にとって、作り手の物語は、購入へのいちばんの後押しになります。私自身、そうやって写真集を買ってきました。だからこそ問題は、その手前にある立ち読みが、場所と運にまかされていることです。写真は国境を越えられるのに、立ち読みは住所にしばられている。どれだけいい物語があっても、最初の一枚に出会わなければ、物語は届きません。だからいま考えるべきなのは、立ち読みをどうつくるか。そして、人はそこにお金を払うのか。払うとしたら、書店のような無料の入口なのか、Spotifyのような月額なのか。この問いについては、しばらく考えつづけるつもりです。
この記事は、2026年10月7日にnoteで公開したものです。